「子どもが喜ぶ、まちが喜ぶ場所」宮里和則さんのお話

今必要な子どもの居場所~サードプレイス~ 第1回「子どもが喜ぶ、まちが喜ぶ場所」が終りました。
ドラム缶風呂からレレレのおじさん、責任はないけど愛がある人、まちの関りなど、考えさせられることが多くありました。大爆笑だった音声を伝えらないのは残念ですが、宮里さんのお話を紹介します。 
 
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あなたのワンダフルワールドはどんな世界ですか?
「悲しくない、辛くない、みんながニコニコしてる世界」
「いつでもどこでも子どもが遊べて大人もニコニコ」
「いつでも話せる仲間がいる」
「子ども達の声が響く街」 などなどそれがあなたのサードプレイス。
イメージする世界は周りにありますか。 
 
サードプレイスは家庭でもない、職場(学校)でもないまちの中の居場所です。自分を出せる場所、そのことで助けられることもある場所。そんな場所がかつて普通にありました。でも、そんな場所がまちの中に無くなってきているように思えるのです。 
もちろんそれは昭和の昔に戻すことではなくもつれた紐を解いていけばいい。いつの間にかかけられてしまった呪いを解いていくことができれば、たどり着けるところだと思うのです。そう思うようになったのは私が北浜こども冒険ひろばでプレイワーカーをやるようになってからです。 
 
北浜こども冒険ひろばは冒険遊び場です。
冒険あそび場は日本ではプレパークと呼ばれることが多いですね。
木登りが出来たり、ロープあそびが出来たり、子どものやりたいを大切にしている場所です。(詳しくは検索してみてください) 
 
さて冒険遊び場の創設者アレン・オブ・ハートウッド卿婦人の有名な言葉に「心が折れるより骨が折れる方がマシだ」があります。プレパークの根幹になっている言葉ですね。ところでこの言葉がいつ言われたか知っていますか。この言葉はなんと1954年に言われているのです。1954年というと日本は遊びの黄金期(昭和30年代)に差しかかるときです。そんなこと言われなくても子どもたちは木に登り、崖から飛び降り、骨を折っていました。(笑)それではなぜ、こんなことを彼女は言ったのでしょうか。実はもうイギリスでは工業化が進んでいて、心が折れる子どもがたくさん出てきたのではないと思うのです。
さて今の日本はどうでしょう。大人の自殺者は減っているが、子どもの自殺者は増えている。「心が折れるより骨が折れる方がマシだ」とを言わないといけない時に差し掛かっているのではないでしょうか。 
 
北浜こども冒険ひろばを少し紹介します。
北浜こども冒険ひろばは、他のプレイパークとは異なりまちの中の小さな公園でやっているプレイパークです。プレイパークを知っている方が見ると驚きますよ。
小さいだけでなく抜け道になるので人通りも多く、公園というより道。生活道路になっているちいさな公園です。様々な人が通り抜けていきます。スーツ姿のビジネスマン。ショッピングバックを押したおばあさん。ヒールで通り過ぎるお姉さん。子どもたちが自由に遊ぶ場所としては、とても制限が多いように思われます。最初は私もそう思いました。 
 
でも実は、人通りの多さは宝物だったのです。 
 
 
 
夏。子どもたちはドラム缶風呂に夢中でした。毎日風呂焚きをやりに訪れる6年生。水着を持ってきてにぎやかに入る子どもたち。まさに北浜が温泉地になっていたのです。普段は公園をただ通り過ぎるだけの人たちも、このドラム缶風呂に引き寄せられるように、近づいてきておしゃべりをしていきました。 
 
 
「懐かしいわね…」「これ熱くないの…」「いつも楽しそうなことしているねえ」「おじさんも入りたいなあ」みんな素敵な笑顔で子どもたちを見ながら話してくれます。「65年前に入りましたよ。この町にも9つぐらいあったんですよ」と普段は無口なおじいさんが嬉しそうにこの町の昔を語ってくれることもありました。戦後風呂屋がなくなってしまったこのまちで9つのドラム缶をまちの人たちが共同で管理していたのだそうです。 
 
ある日のこと、道行く人にいつものように挨拶をしていると「え。こんなことしていいの・・・」と訝しげに近づいてきたおじさんがいました。「公園で火を焚いてもいいの」
そう通常の公園では禁止されている焚き火。おじさんの疑問は最もです。「公園では焚き火をしてはいけない」と言う規範意識を持っているのです。
「ええ、そうなんですよ。この公園は子どもたちが自分の責任で自由に遊ぶことができる公園を作ろうと区が整備したんです。子どもたちがたき火も出来る公園なんですよ」と話すと、「ああ、そうだったんだ…いつもここを通っていて不思議に思っていたんだよ」とおじさんは深くうなずき、火おこしをしている子どもをしげしげと眺めました。
これは子どもの理解者を増やすチャンスと感じ、しばらく話しこもうと思いました。「子どもの火遊びで火事になるニュースが多いじゃないですか。それは隠れてやるからなんですよね。大人と子どもが火を挟んで向き合うことがとても大切なんだと思うんですよね。」「そうだね、大切なことだね。今はどこでもできないからね」と話が進んでいったのです。 
 

にこやかに帰っていくおじさんの後ろ姿を見ながら、規範意識が「焚き火はダメ」から「大人と一緒に子どもは焚き火をするべき」へと大きく広がっていったことを感じたのです。
まちの人の生活のすぐそばに、子どもの遊びがある。そのことが、様々な人に子どもの遊びの大切さ、魅力を伝える場面をたくさん作ってくれている。まちの人たちが少しづつ、それでも確実にオセロの駒を一つ一つ変えるように、変わっていく場所になっていけることを感じたのです。 
しかし子どもはまちで遊ばなくなっています。
皆さんはどう思いますか。なぜ遊ばなくなったのでしょうか。 
 
ある日のこと。プレイパークに初めてきた兄弟、ドラム缶風呂に気持ちよさそうに入っていました。すると弟が「この風呂潜ってもいいですか?」と私に聞いてきたのです。「何言ってんの。そんなの自分で決めなよ」と私が言うと、「ええ。決めていいんですか!」とおどろ言った顔をしました。その時お兄ちゃんが「決めていいんだよ、自由なんだよ」と弟に。すると弟は「天国じゃん」とつぶやいたのです。私は今の皆さんのようにくすっと笑いました。でもすぐ後に、そんなことも決められない彼らの生活を思い、今日はここで思いっきり遊んで行けよ!と思ったのです。遊びは子どもの権利なのに。遊びは子どもの主食なのに。なんで遊びの権利を行使する為に大人に聞かないといけないのか?
それは子どもの価値観が変わってしまったからだと思うのです。
それではなぜ子どもの価値観が変わってきたのでしょう。
私はレレレのおじさんがいなくなったからと思っているのです。(笑) 


現代は少子化社会と言われています。図からわかるように1920年に比べ2010年では子ども一人に対しての大人の数は約4倍になっています。 
では多くの大人が子どもにかかわっているかというと、実は大きな間違いです。それは渋谷のスクランブル交差点にいるようなもので、大人それぞれもお互いを知ろうとしないが、子どもなどいないと思って生活している人がほとんどなのです。だから保護者は自分の子どもが迷い子にならないように、しっかり手を握りしめているのです。
不安ばかりあおられ、保護者は自分の子どものことが気になりすぎている。そしてたくさんの子どもをめぐる産業が生まれました。その結果、子どもは少数の責任のある大人に長時間囲まれて生活するようになってしまったのです。 
まちは危ないといわれ、その結果今まで子どもの周りにたくさんいたまちのおじちゃんやおばちゃんがかかわらなくなってきた、否、かかわれなくなってきたのです。
責任のある大人は、何か事故が起きると責任を取らなければならない。だから責任を取らないでいいように、ルールがたくさん生まれました。しかしルールが生まれるとルールを守らないということで悪い子と言われてしまいます。 
 
例えば木登り。学校で木から落ちて子どもがけがをしたとき、先生たちは保護者にまず謝罪をします。だから多くの学校では「木に登ってはいけません」というルールが生まれます。
しかし、木に登ることは悪いことでしょうか。木から落ちてしまったのは、登り方を知らなかったのか、あるいは不注意だったからでしょう。遊具ではなく生きている木に心を寄せて登ることで、子どもたちが学ぶことはたくさんあります。しかしこのルールがあるとしたら、木に登ること自体が悪いことになってしまうのです。
例えば、これが空き地にある木だったらどうでしょう。そして近くにいたおじちゃんに助けられ、家まで送って行ってもらったとしたら。おそらく家の人はおじちゃんに感謝するでしょう。 
 
いつも責任を問う社会は「ごめんなさい」の文化でできていると言えます。お互いさまと感謝しあう社会には「ありがとう」の文化があります。
その子には直接責任のないまちのおじさんやおばさんが子どもの周りからいなくなることでこの「ありがとう」の文化がなくなり、「ごめんなさい」の文化ばかり今が子どもたちを取り巻いているようにおもえます。
こんな状況で子どもはどのように育つのでしょうか。例えば、道で倒れている人を見かけたとします。「ごめんなさい」の文化で育った子どもは、かかわると何か面倒なことが起こるのでは、と考え通り過ぎていくのではないでしょうか。しかし「ありがとう」の文化で育った子どもは「大丈夫ですか」と声をかけてくれるかもしれません。それは昔自分も助けられた思いがあるのかもしれません。
責任はないけど愛がある。そんなおじちゃんおばちゃんが子どもの周りにたくさんいることが大切なのです。 
 

今の時代は少子化と言われています。少子化で生まれた一番の問題が少知化。つまり知っている人が子どもの周りに少ない。そして多様な価値に触れることもできない。
少子化は簡単に克服することはできないけど、少知化は乗り越えることができます。今日から近所の人にあいさつをすればいいんですよね。 
 
たくさんの大人とかかわって子どもは育ってほしい。それがまちのサードプレイスです。
でもおじちゃんおばちゃんには危険性もあります。「おせっかい」です。優しさが、おせっかいが子どもの主役を奪ってしまうことがあるのです。
子どもは沢山の人との関わりの中で、色々な考え方を知り(多様な価値観)、まちを愛するようになる。大人は子どもの主役の座を奪わないように子どもをニコニコして見守っている。そんなサードプレイスを作っていきたいと思っています。