シリーズ≪パパって何?≫(3)~子供を見てあれこれ考える人~

 

我々大人は、(人によるとは思うが)ずいぶん前にいつの間にか「大人」になって、自分が子供だった時のことを覚えていないか、または、思い出すことがない。だから、自分の子供と話をしていると、ときに面食らってしまうことがある。でも、そうしたときに考えてみたいものだ。自分もかつてはこうだったかもしれないということをだ。
 
下の娘が最近、「宇宙の勉強したいな」と言う。幼稚園年長さんだが、幼稚園で宇宙のお話でもしているのだろうか?かくいう私も子供のころから宇宙好きで今でもやはり好きなので、「ん?宇宙か、おもしろいな。うん。ロマンがあるな。でも宇宙はなかなか難しいで」などと真面目に言ってしまった。私が長男にときどき宇宙に関する質問をいろいろと聞かれて答えているので、なんとなくそういうモードで反応してしまった。彼女によれば、「大丈夫、大丈夫」と言うことだ。
「なんで急に宇宙なん?」
「だって、宇宙が大好きだから。」
ふむふむ。宇宙が大好きとは素晴らしい、さすが我が子だ、などと考えていた。
ある日、何やら自由帳に書いていたのでのぞいてみたら、何か丸いものを描いている。「何してるの?お絵かき?」
「うん、宇宙の勉強だよ。」

あ、なるほど、宇宙の勉強でしたか。そこから、娘のいつもの想像力奔放なお話が始まった。「あのね、これは地球でえ、そして宇宙にはね(以下、理解不能)」
そこで、この前、真面目に反応した自分が思い出されて、何となく滑稽で印象に残っている。同じ勉強でも、関心でも、子供と大人はずいぶん違うものだ。
 
そう言えば、長男にもそういう思い出がある。彼は御多分に漏れず虫好き野郎で、私もかつてはそうだったので(今もちょっとそうだが)、そこは共感していた。昆虫と言えばファーブル、宇宙と言えばアインシュタイン(またはガリレオ)なので、ファーブルの伝記を買い与えていたら小学低学年のころ、夏休みの読書感想文をファーブルの伝記で書いていた。
 
ここで少しファーブルの話をしておく。南仏の貧しい家に生まれ、学校も満足に行けず家を出て自活せざるを得ず苦労していたが、向学心旺盛で、師範学校(無料)に入って中学校の先生になった人だ。その傍ら周囲の住民からの好奇の目に耐えながら虫の生態観察などをしており、50代半ばごろから昆虫記全十巻を著し始める。と、こういう人だ。
 
私はファーブルの研究成果もさることながら、その人生が大好きなのだが、長男の読書委感想文「ファーブルの伝記」の核心は、ファーブルの死後にあった。ファーブルが死んで墓地に埋葬された後、ファーブルの墓にはたくさんの昆虫が集まっていた、というくだり。今の私などは、うそかほんとかわからない適当なエピソードだなあなどと考えてしまうが、長男はここに感動してしまった。自分も虫と友達になりたい、死んだら虫たちが集まってくれるから、なんて思っているに違いない。もっとも、本人は死にたくないらしいので、死んだら、というのは仮定の話になるのだろうが。

 
このように、宇宙の勉強も虫の研究も、子供の世界では実におおらかだ。だからといって、我々大人が子供諸賢に対して、「勉強や研究はそんなに甘いものじゃないよ」などと教え諭すような気持になることも、「やはり子供は素朴でいいなあ」などと子供礼賛することもおそらく何か違うのだろう。
なんでもいいのだが、例えば宇宙でも昆虫でも、いつかは大人の世界のものになっていくだろう。しかし、そうしたときに、子供のころに抱いていた宇宙や昆虫への思いが心のどこかに息づいていれば、その研究なり仕事は、いっそう面白くていいものになるのではないだろうか。
 
さて、ここで自分を振り返ってみる(こういうことは大人だからこそやることだ)。自分は子供のころに大事に思っていた何かを活かすようなことをできているだろうか?うーん。 
Yパパ(小3男子、年長女子)
  
 


 
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